神経芽腫の歴史

新生児の神経芽腫は1901年Pepperにより最初に報告されました。Pepperは、生後4週の新生児期に発症し、その後けいれんをおこして死亡した症例を報告しました。その症例を含めた6例の報告で、“肝臓と副腎の先天性肉腫”として報告しました。
1907年には、ロンドンのRobert Hutchinsonが、副腎からできた腫瘍が、眼窩(眼のまわりの骨)に転移したという7例を報告しました。この7例のうち1歳未満の症例はわずか1例で、全員死亡という悲惨な結果でした。
次第に、1歳未満の神経芽腫は、1歳以上の神経芽腫よりも予後が良いことがわかってきましたが、新生児の神経芽腫は自然に小さくなるということを報告したのは、1971年のD’Angioが初めてです。そこで、 Evansは肝、皮膚、骨髄などに転移があっても、軽い治療で救命しうる神経芽腫を”特別な”タイプという意味の”S(=special)”をつけてステージ4Sの神経芽腫とよぶことを提唱しました。

一方、日本にける治療研究の歴史は、高リスク神経芽腫に対して、厚生省/厚生労働省の研究班を中心に研究と治療開発が行われてきました。1985年から澤口班、1991年から土田班、1998年から金子班に引き継がれ、2007年からの池田班に至り、治療成績は徐々にではありますが改善しています。また、これとは別に国内の各地域ごとのグループによる臨床研究やPBSCT研究会による治療法の開発が行われてきました。2006年には国内のほぼ全域の施設が参加する形でJNBSGが設立され、すべての神経芽腫を対象とした臨床研究が開始されようとしています。